『王女メディア』 幹の会+リリック

『王女メディア』 幹の会+リリック
11月24日 名演例会

原作:エウリーピデース
修辞:高橋睦郎
演出:高瀬久男、田尾下哲

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(サイン入り台本、表紙)

「いっそのことあのいまいましい船が・・・こっぱみじんに砕けてしまって・・・私どもの国まで来ることがなければよかった」
乳母の嘆きで『王女メディア』ははじまる。いまいましい船とは、メディアの夫イアーソンを乗せた船であり、あの船がメディアの住む国に来ることがなければ、メディアとイアーソンの出会いもなかった。
そして物語の終わり、夫イアーソンの血を吐くような慨嘆、
「ああ、いたわしい子供たち、あんなおそろしい母親の手にかかって果てるくらいなら、いっそはじめからこの世に生まれてこぬほうがよかったのだ」

わたしたちが生きてきたなかで、いっそなければよかった! と悲憤慷慨することの経験は数知れずある。そうだ、いっそ生まれなければ、いっそ宇宙などはじめからなければよかった。
けれど、この悲憤のもとをののしっても、宿命のように繰り返しおそってくる悲しい事件、出会い、別れを回避することはできない。そんなことは承知でいうのだ。ああ、いっそ・・・。

平幹二朗のメディアはうつくしかった。おそいかかる苦難、悲しみ、憤りに、まっこうから立ち向かうメディア。平幹二朗はメディアの状況を把握し、理性的に解釈し、そのことばにもっともふさわしい感情を、深奥から、おそらくは気のとおくなるほどの昔から蓄積されてきた感情から、すくいあげてくる。噴出する、揺れ動く、逡巡する、あやしくうねる、そのすべての感情を統御しながら、子殺しへと向かうメディア。復讐をはたしたのちは、一気にひとを超えて暗黒の神となる。
平幹二朗のめくるめくような巨大にして繊細かつ自由な様式美がそこにあった。

わたしたちは計算されつくした様式の世界にひきこまれていき、そこで悲しみと憤りの波にゆられて悦楽をあじわうのだ。子供を前にして逡巡する中盤のみせどころ、刻一刻と変化する感情は、もはや時空を圧縮した曼荼羅そのものだ。

同じ高瀬久男演出の『王女メディア』をDVDで2回観た。今回が3度め、はじめてなまの舞台で観るメディアである。
前回の夫役城全能成は声の甘さが魅力で、やさしいことばの裏にある計略を感じさせた。今回は山口馬木也。まっすぐで純粋、猛々しい雰囲気で、メディアとの最初の対峙において対立が先鋭化し、そそりたつふたつの峻厳な山が見えていた気がした。

決意のもとに子を殺したあと、背景は赤一色となった。メディアは檻のように見える龍車のなかで、ふたりの子供を抱いている。その高みから、地上で憤り悲しむ夫と恨みのことばを投げつけあう。ことばはメディアが子殺しに使った真っ赤な短剣のように鋭く、ふたりの仲をさらに切り裂いていく。すでにふたりのあいだにあるのは切り立つ赤い断崖のみだ。
三千世界の山々にまたがる巨大な暗黒の神と化したメディアに、「消え去れ、あさましい化けものめ」と、叫ぶ夫もまた神にひとしい大いなる悲嘆の怪物と化していた。この大いなるものの決裂こそ悲劇の快感である。

勝ち誇ったように高笑いするメディアを乗せて龍車はゆっくりと回転していく。龍車が4分の1ほど回転して正面の顔を見せていたメディアが横顔になったとき、高笑いはそのまま悲痛の叫びとなり、うつむく横顔に思いがけないほど人間くさいかなしみの表情があらわれた。衝撃だった。

いっそ、なかったら・・・と、いうことばはすでに無意味だろう。
そのことばが戸板返しのように反転したところにこそ、華麗にひらく曼荼羅がある。

それにしても神が人をして構築しようとした世界は沈黙だったのか。ことばを尽くして尽くしたあげくに、おとずれた沈黙の底で、さまようメディアの人間としてのかなしみが、いつまでも心に残った。



参考までに、DVDを観ての感想はこちら → 『王女メディア』をDVDで観る










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プロフィール

風のミランダ

興味の対象は演劇、映画、文学です。趣味は彫刻、写仏、乗馬など。何十年も生きてきて、話題盛りだくさん、といきたいところですが、あんがい狭い?