「気」的生活:マチュピチュ 2

マチュピチュのいちばん高い場所にインティワタナという石の建造物がある。太陽をつなぐ、という意味で、日時計として利用されたと考えられている。

1-img309.jpg インティワタナ。(絵葉書より)

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インティワタナ。

この場所へきたとき、それまでとはちがう強い気が放射されているのを感じた。日当たりのいい場所なので、石が熱を放射するということはあるだろう。が、そんな場所にある石は、いくらでもあった。なにかちがう。

夫に小声でいった。
「これ、なんかすごいの。ここに立って。撮るから」
それで、夫をアップで撮ったので、インティワタナぜんたいを見るには、とても具合のわるい写真になってしまった。
旅行から帰って、わたしの気功の先生ともいえるQさんにマチュピチュの写真を見せ、
「このなかで、1箇所、すごい気を感じたんだけど」
と、話すと、Qさんは見開き4枚ずつならべた写真アルバムをくりながら、
「これかな」
と、こともなげにいって、わたしたちを驚かせたのだった。

Qさんは、てのひらを写真にかざしたわけではなかった。ただ、見て、わかったのだ。
それから15年たったいま、わたしもこれを見て、ほんのすこしわかるような気がする。ひらたく切りとられた平面のシャープさ、その質感、重量感、そして垂直に立てられた長方形状の石とのバランス。ことばではまったく説明できないけれど、なにかを感じる。ただ、現地での体験があるので、この写真は先入観をもってしか見られないことはたしかだけれど。

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ところで、前回のこの写真、段段畑が見える。

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そこに立って撮ったのがこの写真。急峻な斜面に作られた段段畑は幅がせまく、谷をのぞくとあまりに深い。ほんとうに、こんな危険な場所で畑仕事をしたのだろうか。うっかりすると、落ちていきそうだ。むろん、落ちたらそのまま、谷底からまっすぐ天空へ到達すること確実だ。

マチュピチュの気候ははげしく変化する。陽が照れば暑い。雲がでてくると寒い。霧のような雨が降る。

(日焼けがいやで帽子の上からスカーフをかぶった。むかし、西洋の貴婦人がそんなふうに帽子とスカーフをつかっていたように思う。けれど、帽子のつばがやわらかいので、貴婦人ふうにはならなくて、農家の婦人ふう。いや、いまどき農家の女性は花柄のかわいい帽子をかぶっている。当時はまだ敏感肌用の強力なサンスクリーンがなく、物理的に顔をおおって強烈な陽射しをさえぎる以外に方法がなかった。どうもペルーの旅では、ひどいかっこうをしたものがほとんどで、いやになる。写真をださずにおこうと思っていたが、いちどだしてしまえば、あとはもうどうでもよい。ヌードモデルなどもそのようにして慣れていくのだろう)

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マチュピチュのなかにもリャマがいる。とんでもなくツンデレさんだ。

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ほら、あっちのカメラのほうを見て、といったけれど、横目でジロリと見て、たしか唾をペッと吐いた。土産で売っているTシャツに、リャマが唾を吐く絵が描いてあって、おもしろいから買った。リャマって、唾を吐くので有名なのだろうか。ツンデレ馬は唾を吐かないよ、リャマくん。

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太陽の神殿の下、王の墓と聞いた。

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工業地帯、とメモ書きがある。あまりおぼえていないが、農業いがいにも手工業がおこなわれていた跡だ。住人は女性がほとんどだった、という説があるように聞いたけれど、王の墓があるからには、男性もいたのだろう。男性が下界へはたらきに行き、あるいは戦争に行き、女性たちはこの山上の隠れ家のような場所で日日の生活をいとなみながら男性の帰りを待った、ということだろうか。
インティライミ(太陽の祭り)、インティワタナ(太陽をつなぐ、日時計?)など、太陽信仰があることを考えると、ここは太陽にもっともちかい場所に作られた王のすまい、さらには神聖な大奥だったといえるのかもしれない。

(ほんとうのところはわかりません。文献を読んだことがないので、かってな推測です)
注:王の墓、女性の住人のほうがおおかった、などは、マチュピチュの発見者ビンガムの仮説のようです。最近の研究では王の遺体はクスコへはこばれ埋葬された、住人は男女半々で50歳代がおおかった、ということが、Wikipediaに書かれています。

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山のふもとが駅。山肌の白いのが道。ここをバスでのぼってマチュピチュにやってきた。

さて、帰り、バスでこの道をくだっていくと、男の子がバスのまえに立って手を振っているのにでくわす。男の子は「グッバーイ」と手を振っていなくなる。そしてまた、おなじ男の子がバスのまえに立ち、手を振る。「グッバーイ」といっていなくなり、また走るバスのまえに立つ。
つまりこの男の子、グッバイボーイというのだけれど、バスの道ではなく、斜面を垂直にかけおりていくので、かならずバスよりさきに立つことができる。
それをくりかえして最後に、バスに乗りこんできて、集金する。ガイドが、「なるべく文房具をあげてください」といっていた。

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グッバイボーイのローセルくん。名前がわかったのは、1年後にテレビにでていたからだ。あと1か月で13歳になる。そのときにグッバイボーイを引退する、といっていた。今年、27歳ということになる。まだまだわかい。

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さて、今回の旅のトラブルの2番め、クスコへむかう帰りの列車が故障で止まった。なんの故障だったか忘れていたが、メモにはブレーキの故障とある。
この列車は、スイッチバック方式で山をのぼりおりする。行って、また戻る、ように見えて、ちょっとずつすすむ。ブレーキが故障しても大事にいたらなかったのは、この方式のせいなのだろうか。
2時間遅れで動きだした、とメモにある。そのあいだ乗務員の女性が、アルパカのセーターを何度も売りにきた。わたしにすすめられたセーターは、模様がすてきだったが、地色が茶だった。
「茶色は好きじゃないの」というと、がっかりした顔でひきあげていった。

いや、でも、今回の旅は茶系のタイシルクの服をはおっている。その頃は素材に凝っていて、シルクなら好きではない色でも着ていた。あのときはすでに好きな色のセーターを買ったあとだったとはいえ、すすめられた茶のセーターを買っておけばよかったと思う。

危機感がまるでない車内だった。にんげんは2時間も、危機感をおぼえて顔をひきつらせていることができないのだ。
故障したブレーキは部品を交換したようだった。部品がとどくまでに時間がかかったようだ。列車はぶじクスコに到着した。4時間の乗車のはずが6時間、すっかり夜がふけての夕食だ。けれど、ふたたびクスコで高山病になったひとはいないようだった。

(つづく)

コメント

Fermat

Wikipediaの受け売りですが……。
マチュピチュの墓所に埋葬されている人骨の調査から、男女比はほぼ半々で家族も暮らしていたことがわかっているみたいです。50歳代以上の人骨が多く、この時代としてはかなり健康的な生活が送られていたことがうかがわれます。天上の理想都市……だったのかな。ちなみに王族を埋葬した形跡はなく、マチュピチュで死亡した王族はクスコに運ばれて埋葬されたと推測されています。それにしても、インティワナタ……。すごく意味ありげです。何に使われたんでしょうね。太陽をつなぐ、っていうことは、日食のときの祭祀でしょうか……。天岩戸もそうだけど、古代人にとって日食はとても大きな意味を持つ現象だったから……。石の断面のシャープさは、石組みの石とも共通していますね。埋葬骨の研究から、遠方から石工のような技術者集団がやってきていたのではないかという説もあるみたいです。

風のミランダ

Re: タイトルなし
Fermatさん、コメント、ありがとうございます。v-254

いま、Wikipediaをぜんぶ読んでみました。最近の研究の成果なんですね。
15年前は、マチュピチュの発見者ビンガムの説を、そのままガイドが解説していたようです。大半は女性の骨だとビンガムが報告を受けたとありますね。やはりそういう説があったのかと、みょうなところで納得しましたが。
いまだに阪急交通社のマチュピチュの解説では、王の墓と記されていたりします。写真は載せませんでしたが、傾斜した平たい台は、生贄の台といわれている、とメモしています。生贄の台ではなく、太陽観測のものだったのですね。
教えてくださって、ありがとうございます。

インティワタナが日時計、あるいは太陽観測としてつかわれたのはべつにいいのですが、なぜ強い気を発していて、それを複数のひとが確認できるのかについては、ふしぎだなと思います。
巨石をどう運んだのか、現地で加工したのかなど、研究がすすめばいずれわかるのでしょうか。もし、タイムマシンがあれば、過去に行きたいか、未来に行きたいかという問いで、わたしはぜったいに未来へ行きたいと思っていましたが、どうしても解けない謎を解明するために、過去へも行ってみたいかも、とこの頃は思います。イースター島の巨石はどう運ばれたのか。ピラミッドはどう作られたのか。ストーンヘンジは・・・などなど。
とりあえずは、信長の遺体が見つからないのは何故かを知りたいです。

Fermat

過去に行けたら……。そうですね。僕は信長に会ってみたいです。子どもの頃、信長がどんな人だったか合って話してみたいと、なんだかしらないけどものすごく強く思ってました。思いすぎて、どこかで声をかけられたことがあるような気が、ずっとしていました。

信長の亡骸が見つからなかったのは、それが信長の遺志だったからだと思います。自分がもう助からないと悟ったとき、信長が考えたのは妙覚寺にいた息子の信忠を逃がすことだったはずです。信長を討ち取ったことを確信できれば、光秀は迅速に次の行動に移ります。その確信を光秀に与えないために、小姓か誰かに自分の遺体を、火をかけた部屋に放り込むことを命じて、信長は自刃したのだと思います。光秀は馬鹿ではありません。信長のそういう行動を読んでいたはずだから、遺体そのものが発見できなくても、状況から考えて信長の遺体が燃やされたと判断すれば、信忠討伐に向かうはずです。それで稼げる時間は僅かでしたが、それでもその隙に信忠がすべてを捨てて安土か尾張まで逃げ延びるチャンスに賭けたのだと思います。信長なら、きっとそうしていたから。実際には、信忠は妙覚寺を出て、父の救援のために本能寺に向かってしまいます。本能寺はすでに焼け落ちていたため、二条城に籠もって信忠はそこで自刃するわけですが、それだけの時間的余裕があったわけで、もし信忠が信長なら(というのも変な言い方ですが)、きっと逃げおおせていたと思います。信長の逃げ足の早さは金ヶ崎の退き口で実証済みです。ちなみに、信忠の遺骸も見つかっていません。彼も、部下に自分の遺骸を二条城の床板の下に隠すように命じています。戦国時代の武将は、味方のために自分の死を隠すのが普通でした。
あ、また長くなりました。失礼^−^;;

風のミランダ

Re: タイトルなし
Fermatさんへ

やはり信長は自刃ですか。不意打ちされて自刃するのはあまりに無念だから、なんとかして逃げのびてほしかった、と思ってしまうんですよ。本能寺の下に地下道があって、そこへ誘導されたけれど、出口がふさがれていてそこで亡くなった、という説もありますね。出口をふさいだのは秀吉という説。やはり地下道は荒唐無稽なんでしょうね。
信忠が信長なら逃げおおせた、というのはわかる気がします。天下をとるためには、親子の情愛などに気を取られてはだめなのでしょう。
わたしは帰蝶が何歳まで生きていたかも興味があります。すぐに殺されたのではないかと、ここ数年は思っているので、ドラマを観ていると、ひっかかるんです。お暇なときにでも、Fermatさんの見解をお教えください。

Fermat

信長が、本能寺を脱出して生きていたという風説は当時もあって、秀吉もその風説を味方を集めるために利用したようです。地下道以外にも、光秀軍は女や無関係の商人たちは本能寺から退去することを許したから、その中に紛れて脱出したとか、誰かがこっそり見逃したとか、小説のネタとしては、信長生存説は魅力的ではあります。日本に嫌気がさして、堺衆の船でアジアに脱出したとか。そういう筋書きのマンガや映画もありました。現代日本にタイムスリップというのもあったような……。

ただ、それは史実ではないし、万が一彼が生き延びていたとしても、ふたたび彼が歴史の舞台に立つことがなかったのは事実なわけです。彼の行った膨大な殺戮と破壊を考えれば、それを正当化できる(としてですが)のは唯一彼が自分のビジョンを実現することにおいてのみのはずで、本能寺から逃げたとしても、その後彼が隠棲したとは考えられないし、もしそうしていたとしたら、それは信長の抜け殻でしかありません。
100人の供の者と本能寺にいたところを光秀に襲われた時点で、信長にとってのゲームは終わったということで、だからこそ襲ったのが光秀軍だと知ったとき、信長は「是非におよばず」と言ったのだと思います。将棋で言えば、投了ですね。

道三の娘のその後については、確かにいろいろな説がありますが、信長の美濃継承の正当性の担保という意味からも、殺されたとか密かに美濃に返されたという説には頷けません。仮にそういうことがあったとしたら、信長はそのことに何らかの正当な理由づけをしただろうし、だとすれば信長公記あたりに記述があるはずです。その説は、津本陽の『下天は夢か』の下敷きになった武功夜話によるものだと思われます。武功夜話は完全な作り話とは言いませんが、後世の創作であり、かなりフィクションが含まれていると僕は思っています。山科言継の言継卿記に、京都に信長が進出した後の話として、信長が美濃の姑を訪問したという記述があります(これは日記なので、かなり信憑性が高いです)。美濃の姑とは濃姫の母親です。少なくともその時期まで信長は濃姫の母親を姑として敬っていたわけで、彼が濃姫を殺させたとか、実家に返したという説は、そういう意味でも辻褄が合わないと思います。司馬遼太郎の『国盗り物語』では、濃姫は本能寺で信長とともに最後を遂げたことになっていますが、もしそうだったとしたら、これも誰かが記録したのではないかという気がします。その痕跡がまったくないことを考えても、濃姫は信長の死後まで生存したのではないかと、僕は考えています。

風のミランダ

Re: タイトルなし
Fermatさんへ

ひとりで読むのがもったいないようなご説明をいただき、恐縮です。お忙しいところを、本当にありがとうございました。
信長がどこかで生きていたとは思わないのですが、ドラマなどで何度も最後の場面を観ているので、信長はじつは逃げる意志を持っていたのでは、と勘ぐってみたくなるのでした。
死刑をいいわたされたソクラテスは、牢獄から逃亡もできたのにしなかった。それをソクラテスの知の限界と批判するひともいます。ソクラテスと信長とは状況が違いますが、後世の庶民的感覚では、なぜ逃げなかったのか、と思うわけです。信長が逃げなかったのは、自身の命運が尽きたのを、卒然と悟ったということなのですね。うーん、さすが信長の熱烈なファンでいらっしゃるだけあって、いちばんカッコいい信長像です。天才でなければ、ゲーム終わり、と俄には悟れませんから。

信長が美濃の姑を訪問した、という日記のことは知りませんでした。信長の人間味ある一面を見たようで、うれしいです。すくなくとも、信長に嫁いですぐに殺されたのでなくて、ほっとしました。でも、そうなると、側室ばかりに子供ができたのは、気の毒な気がします。道三の娘だから美人ではない、とわたしの周囲ではいいますし・・・。

最後に、もう一度、懇切丁寧なご説明、ほんとうに感謝です。ありがとうございました。v-300

Fermat

もし、逃げのびる可能性が1%でもあったら、信長はそれに賭けたと僕も思います。けれど、光秀の1万人の軍勢に囲まれては、不可能だと悟ったのでしょう。光秀が優れた戦闘指揮官であることは、信長がいちばんよく知っていました。

あ、この間話していた本、出ました。『新宿ベル・エポック』というタイトルです。新宿中村屋の話を書いた本です。かなりマニアックなので、アマゾンではぜんぜん売れてません^−^;;;

風のミランダ

Re: タイトルなし
Fermatさんへ

余談ですが、道三の血を引く信長の子供がいたら、歴史は変わっていたかもしれないと思うことがあります。

上梓された本、アマゾンからメールが来ていました。ペルーの話を書きおわったら拝読するつもりです。碌山に光太郎、とっても興味あります。ご連絡、ありがとうございます。(*^-^*)

Fermat

道三の血を引いた、信長の息子……。なるほど、それは考えてもみませんでした。どんな人物になったでしょうね。興味あります。道三と濃姫との間に、娘が生まれたという説がありますが、その娘がその後どうなったかはわかっていません。その娘の話は、なんかフィクションが書けるかも……。

風のミランダ

Re: タイトルなし
Fermatさんへ

そんな説があるのですか。うーん、近親相姦は気持ちわるくて、考える気力がおきません。
それは別にして、濃姫のことは実際はどんな生涯だったのか、知りたいです。

両親が岐阜出身で、わたしは金華山を見て育ったので、考えることが愛知県人より岐阜よりかな、と思います。

Fermat

ご、ごめんなさい!!
ものすごい間違いです。道三と濃姫ではなく、信長と濃姫の間に娘が出来た、と書いたつもりでした(道三と濃姫に、怒られそうなので、今、手を合わせて心の中で謝りました)。

信長と濃姫の娘のその後を、小説にしたら面白いかなあと思ったのでした。

金華山を見て育ったので、考え方が岐阜よりというのは、なるほどなあと思います。
 濃姫が長生きした説の根拠のひとつとして、信長が岐阜の武将たちを、名古屋時代以来の武将たちと同じように大切にした事実をあげる人がいます。岐阜の武将たちはつまり、濃姫の家来筋にあたるから、信長は彼らを厚遇したのだということですね。本能寺の変のときに、信長を守って討ち死にした人々の中には、道三の家来や家来筋の人々が何人もいたようです。

風のミランダ

Re: タイトルなし
Fermatさんへ

あ、まちがいでしたか。よかった、よかった。道三のイメージが一瞬すごくわるくなりました。またイメージ回復です。(^-^)
岐阜の武将たちが最後まで信長の良き家来であったなら、濃姫がすぐに殺されたという説は、まったくのまちがいだということを、この点でも立証していますね。

Fermat

そうそう^-^
ということだと、僕も信じています。

風のミランダ

Re: タイトルなし
Fermatさんへ

ここ数年の疑惑が解けてうれしいです。ありがとうございます。v-278
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プロフィール

風のミランダ

興味の対象は演劇、映画、文学です。趣味は彫刻、写仏、乗馬など。何十年も生きてきて、話題盛りだくさん、といきたいところですが、あんがい狭い?