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『もやしの唄』テアトル・エコー 観劇感想 ;思慕

演劇
03 /20 2018
『もやしの唄』テアトル・エコー
3月16日 名演夜例会
作・演出:小川未玲
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(あらすじ)
高度経済成長期の昭和40年頃、もやし屋を営む泉家の物語。
恵五郎:父親の後を継いで、大変な手作業のもやし屋を営んでいる。妻を亡くし、幼い息子がいる。
一彦:恵五郎の弟。大学を留年している。へそ曲がり。気ののらない就職活動をしている。
十子:恵五郎の妹。陽気な性格。婚約中。
村松:最近住み込みで働くようになった青年。自分の家の会社が嫌で出てきたらしい。もやしのように頼りなさそう。
九里子:中華料理店で働いていて、泉家を手伝いにくる。どうやら恵五郎が好きらしい。
八重:恵五郎の亡き妻の母親。
喜助:泉屋のもと従業員。知的障害をもつ。60歳くらいのはずだが、40歳くらいの時と変わらないように見える。むしろどんどん若くなっている。終戦後の食糧難の時期に子供を飢えで亡くした。

恵五郎に持ち上がった見合い話、村松の意外な正体、もやしが芽を出すときに音がする、というエピソードなどが盛りこまれ、高度経済成長、大量消費社会の中で失っていくことになるかもしれぬ、たいせつなものに、目を向けさせる。

(感想)
悪人がひとりも登場しない、ハートフルコメディである。ドラマの牽引力を、作りものっぽい悪人や、アンチを唱える薄っぺらな人物に委ねてしまう芝居を観て、とても残念な思いをすることがままあるが、この『もやしの唄』にはそれがなかった。
まず、人物のデフォルメが面白い。どこででもうたた寝してしまう恵五郎、ふざけているとしか思えないほど将棋の弱い弟。さらに、村松を、必ず松村と言い間違える恵五郎、などなど。コメディの重要な要素が文句なく面白い。しかも、どの人物の会話にも知性を感じる。会話の弾力がいい。巧みで面白い会話に演出がじつにうまく応えている。(と、思ったら、作、演出同じ小川未玲だった)

昭和40年が舞台で、わたしの子供の頃と重なる。リヤカーで薪や練炭を運んでくる知的障害の男性がいて、近所のおばさんたちに可愛がられ(一方では恐れられ)ていた。喜助の存在がなつかしいのは、しかし、それだけではない。小川未玲の師匠井上ひさしには、現実世界ではない場所への思慕があった。そして、井上ひさし『イーハトーボの劇列車』に見られるように宮澤賢治にも、それがあった。喜助とは、その思慕を純粋に顕現する存在である。そのことをなつかしく感じた。

喜助だけが、この物語の中で、次元の違う存在である。20年経っても変わらぬ、むしろ若返りつつある容姿、一瞥して真実を見透かす力、おのれの命の期限と行方を知る力。喜助が、「今日はもやしはいらない。一足先に帰ります」と言ったとき、わたしは『イーハトーボの劇列車』の終章で、賢治が「わかってる」と達観した顔でうなずいて、あの世へと旅立っていく場面を思った。

井上ひさしと比べてしまう感想はちょっと問題かもしれないが、賢治から、井上ひさしへ、小川未玲へと引き継がれてきた、「ここにはないところへの思慕」の顕現が、なつかしく嬉しいのだった。

ところで、一彦の将棋が弱いのは、将棋の最中、自分でも気づかないほどの瞬間、瞬間をまどろんでしまっているせいではないだろうか。ゆえに、お疲れの恵五郎はしばしばまどろむときに、一彦は負け将棋中の瞬間まどろみ芸のときに、喜助が日常的につながっていたあの理想郷に、つながっていたのではないかと夢想する。むろんまた、暗い屋内で夢見ながら育つもやしたちも。

ともあれ、悪人が登場しなくても面白いドラマが成り立つのだ、というお手本のような作品だと思う。
しかもこれは、けして古い時代の話ではない。頑迷さを持つ人物がいたりすると、古いと思うことがあるが、この作品はそれとは無縁である。舞台の中で流れる本物の水がある。人物たちはあたたかく、みな流れる透明な水のような感性と知性を持つ。普遍的でたいせつものへしっかりと目が向いていて、それが日常の中にあって少しも不自然ではない。この作品は、とても新しい、そう思った。






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風のミランダ

興味の対象は演劇、映画、文学です。趣味は彫刻、写仏、乗馬など。何十年も生きてきて、話題盛りだくさん、といきたいところですが、あんがい狭い?