悲観、楽観に傾かず、水平飛行でまいります。上空、笑い、いささか寒うございます。お乗りのかたは、マフラー、手袋をお忘れなく。
『フル・サークル  ーベルリン1945ー』 劇団俳優座
5月30日 名演例会
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左から:島英臣(シュミット)小山力也(エーリヒ・ローデ)斎藤深雪(アンナ)

原作:エーリヒ・マリア・レマルク
潤色:ピーター・ストーン
訳・演出:勝田安彦

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(あらすじ)
 1945年4月30日ベルリン。
 アンナの住むアパートに強制収容所を脱走したローデが、アンナの亡夫を頼って逃げのびてきた。ローデは7年前に、強制収容所の存在の噂を新聞社に問い合わせたかどで政治犯として収容されたのだった。脱走したローデを追ってゲシュタポ(シュミット隊長と部下2名)がアンナの部屋に押し入ってくる。
 アンナ、ローデ、シュミットの、極限状況での駆け引きが始まる。

 この日は、ヒトラーが自殺した日である。そのニュースがあった時点で状況は一変し、ゲシュタポのシュミットは、侵攻してきたソ連兵に追われる立場になる。シュミットは、自分こそが強制収容所の囚人であり、ローデはゲシュタポであると騙り、身分証を偽造し刺青まで入れてソ連兵の尋問に備えるが・・・。

(感想)
 名演では21年前に例会となった作品である。緊迫感あふれる濃密な内容の舞台であり、そのときは、シュミットがただただ怖ろしく憎らしく、卑小であり哀れであったのを記憶している。そこのみの記憶・・・、たぶんわたしはまだ子供だったのだ。
 
 さて今回、大人になったわたしは、再び緊迫した舞台に瞬時にして引きこまれた。歴史上恐怖以外の何物でもなかった治安維持法。それを思わせる法律が成立しようとしている今、この舞台に置ける閉塞感と恐怖がリアリティをもって迫ってきた。
 しかし一方で、進行するドラマの魅惑的な反転の構成や人間心理の綾、深い洞察を堪能もした。そして、すっかり忘れていたけれど、ここにはなんと素敵な台詞が散りばめられていたことだろう。

 緊迫した状況下で、次つぎに繰り出されるおのおのの知恵、その閃きは電撃のようにパワーがあり、鮮やかだった。ことにアンナの怯えと強さの共存する表現がみごとだった。

 アンナとローデの悲恋(別離)は、信念を貫くことと、信念よりまず生きのびることを願う二つの究極の選択が基となっている。人は理念を持つことは是であっても、信念を持ってはいけないのではないか、と思ったりもしたが、ローデの境遇を考えれば、そうせざるを得なかったことも実に納得がいくのである。

 アンナの夫はユダヤ人支援者である自分をアンナによってナチスに密告させた。それしかアンナが生きのびる手だてがなかったからだ。しかし、それゆえにこそアンナが夫を憎むことになったという心理表現は深い。英雄気取りとアンナは夫を侮蔑する。しかし、夫からすれば、それはやはり妻への犠牲的愛情の表現であり善なのだ。

 人は、ときに善意による行動を、偽善と指摘される。しかし、おそらく何が善か偽善かなど、いえるものではない。善は常に相対的だ。そしてまた正義も。

 終盤で、ソ連兵が正義を掲げてローデを捕え、教育施設へいれる。しかし、そもそもヒトラーが掲げたものもまた正義であったはずだ。「フル・サークル」の皮肉的意味がここにおいて明らかになる。
 人は、この閉じた円環から抜け出ることはできないのか。同じことを繰り返すなら、あまりに人は愚かではないか。そうあっていいはずがない。

 紫煙の中に消えていくアンナの思いが、絶望でないことを祈りたい。

 








 



[2017/06/02 16:00] | 演劇
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