悲観、楽観に傾かず、水平飛行でまいります。上空、笑い、いささか寒うございます。お乗りのかたは、マフラー、手袋をお忘れなく。
『ロミオとジュリエット』ブラナー・シアター・ライブ
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ブラナー・シアター・ライブ『冬物語』に続く第2弾『ロミオとジュリエット』

最初にケネス・ブラナーが舞台の袖に出てきて挨拶した。
「ロミオ役のリチャードは、48時間前に怪我をして、懸命の理学療法を試み、医者の許可を得て出演できることになりました。ですが、怪我の痛みのために演出を変えたところがあります。みなさん、これが、生の舞台です」

これが、生の舞台です。
そういえば、このところ、生の舞台で2度続けて役者がつまずいてよろけたり、つんのめったりしたところを見た。これが、生の舞台です。

とはいっても、これは舞台の映画なので、生ではないけれど。

ケネス・ブラナーは、『ロミオとジュリエット』を14歳で観て、シェークスピアにはまったそうだ。
わたしも同じくらいの歳でこれを観た。が、映画の『ロミオとジュリエット』にははまったが、シェイクスピアにはまったわけではなかった。

その後BBCで放送された『ロミオとジュリエット』は、ロミオ役の青年の声がやわらかく甘くて、カセットテープを巻き戻しては聞き惚れたものだった。そのとき覚えた単語がbanished(追放された)。Romeo is banished.
(ロミオは殺人の罪で街を追放の身となった)

即刻追放の身となったロミオは隠れてジュリエットと一夜を共にする。その夜明け、ロミオがいう。
「朝を告げるヒバリの声だ。もう行かなくては」
するとジュリエットが、「いいえ、あれはナイチンゲールよ、まだ出発するには早いわ」
ロミオ「ああ、きみがそういうなら、あれはナイチンゲールだ。ヒバリではない。死よ、来るなら来い。よろこんで迎えよう」

・・・この場面がいちばん記憶に残っているのは、どういうものでしょうね。いや、これが永遠の別れになるのだから、あたりまえかな。

話は飛ぶが、
テレビの美術番組で山田五郎氏が、クラナッハの「ユディト」の絵についてこんなことをいっていた。(美しき魔性の女ユディトが、斬り落としたホロフェルネスの首、その髪をつかんでいる)

「ほら、見てよ、このホロフェルネスの顔、恍惚としてるよね。こんな魔性の女に殺されてみたいもんだなんて話をするよね、ゴールデン街あたりでさ」

へーえ、そうなんだ、ゴールデン街って、飲みながら、そういう話をするところなのね、と思ったのだが、ま、その話はおいといて。

もうこの命、どうなってもいい、というくらいにのめりこむ恋はそうあるものではない。いや、そんな恋ばかりだったら、人類はこうも増殖はしなかっただろう。
現実的でないからこそ、「あれはヒバリではなくナイチンゲールだ、もう出発するのはやめた、きみとこうしていよう。捕まって殺されても本望さ」と、微笑みながらジュリエットの胸に顔をうずめるそのシーンが、記憶に焼きついてしまうのだ。

そうよねえ、山田五郎氏ではないけれど、こんなふうにいわれてみたいよね、ありえないからさ。
・・・て、わたし、女目線だね、これ。

さて、その後も、何度観たかわからない『ロミオとジュリエット』、もう発見も何もないだろうと思って今回観た。本場の、ケネス・ブラナーの演出に興味があったのだ。

彼は50年前の『甘い生活』(フェリー二映画)をヒントに演出したということだ。だから画面は白黒で。(服装も1950年代ふう)

ああ、よけいなお気遣い、舞台では色があるんだから、そのままの色で観たかったな。

新しい発見はほとんどなかったが、新しい演出には出会えた。
1:バルコニーで、ジュリエットがワイン(?)の瓶をラッパ飲みしている。恋した相手が敵の家の息子ロミオだとわかったので。やけ酒?
2:マキューシオがめっぽう年寄りだ。

ジュリエットのやけ酒はリアリティがあって笑えた。年寄りのマキューシオ、いや、意外に納得できる。卑猥な言葉遊びが得意だから、年寄りであっても全然おかしくない。これもリアリティ、おおありだった。

ところで、ロミオは、ジュリエットにひと目惚れする直前までは、ロザラインにぞっこんだったのだ。
「若いものの恋は心にではなく、目に宿るのだな。そしてうつろいやすい」と神父がいったように、ロミオくんはもしこの悲劇で死ななかったら、ひと目惚れの達人、おっちょこちょいの浮気者で、生涯にわたって数限りない女に、「ああ、もう死んでもいい、きみといられるなら」といいつづけたことだろう。ジュリエットだって、次つぎにワインをラッパ飲みするキッチンドリンカーになったかもしれない。

そうあってはいけないので、初恋は純粋なものとしておきたいので、ロミオとジュリエットはシェイクスピアによって瞬時に死の氷漬けにされたのだ。ああ美しき恋の結晶。シェイクスピア先生の引き出しの奥の宝物。

皮肉と笑いと、きらびやかに装飾された言葉、ことばの美しき土砂降り。
そこにおいては、ジュリエットでさえ、「ロミオを切り刻んで夜空に撒いたら、キラキラ光って綺麗でしょうねえ」と、大真面目にいうのである。シェイクスピア先生が陰でニヤリと笑うのが目に見えるようである。

さて、今回の演出で気がついたのは、悲劇といいながら、全体に笑いの要素が多かったことだった。演出家が何歳なのかで、恋の純粋性をどれだけ客観視できるかが測れるかもしれない。
あるいはわたしが何歳かで、純粋の枠にはめこんだ恋を、あくまで全体の中の括弧つきのものとして、俯瞰していられるかどうかが決まるかもしれない。

であるにもかかわらず、やはり役者の迫力ゆえか、最後のシーンは泣けるのだった。
いやしかし、はたして若い恋の悲劇に泣いたのかどうか怪しい。
悲しくてやりきれなかったのは、敵どうしの家と家との争いの愚かさだった。それは家と家にとどまらず、国と国とのいがみあい、悪口、憎悪にまで思いがおよんだ。争いは悲劇しか生まない。

人はいつまで愚かであり続けるのか。それで泣けたのだ、たぶん。
純粋一途、燃えるような恋は長くは続かないから、死の結晶に閉じこめておくしかない。そう、初めて観た14歳の頃には、そのことがわからなかった。

ところで、怪我をしたロミオ役のリチャードは、どこが痛かったのか、まったくわからなかった。ただ、バルコニーが低くて、ロミオが駆けあがったり、よじ登ったりすることはなかった。
怪我といえば、捻挫、骨折が思いうかぶ。どちらも経験したことのあるわたしは思う。役者さん、たいへんでしたね。痛みが残りませんように。わくわくする舞台をありがとう。












[2017/02/27 12:30] | 映画
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